3月のひとこと「3月11日の思い出」

 3月になると思い出すことは、矢張り「東日本大震災」です。3月11日の震災時、私は丸の内に居てセミナーを受講していました。突然の揺れにびっくりしたものの、そのうち揺れが収まるだろうと思っていたら、更に大きな揺れが始まり、窓越しに見える街路樹が大きく揺れていたのが印象的でした。それでもしばらくすると、揺れも収まり、ビルの警備員から「ビルから退去してください!」というアナウンスがありました。3階から階段を使って降りていくときに、床から天井にかけて、大きな亀裂が発生していて、ただ事では無いと実感しました。

 1階ロビーにテレビがあり、そこには津波の姿が映し出されていました。その津波は港に押し寄せ、車も建物も全てを飲み込んでいく映像に、何か映画のシーンでも見ているかのように感じ、現実に起こっている状況とはとても思えませんでした。外に出てからも揺れが何度となく繰り返され、建設中のビル上にあるクレーンが、どうすることもできないくらい大きくあっちに揺れたり、こっちに揺れたりという状態でした。もしかすると、クレーンがビル上から落ちてくるのではないかと思ったくらいです。

 会社に連絡し、私が無事でいることと、会社の従業員も無事であることが確認され、暫し安堵しました。これからどうすれば良いのか。皇居の目の前で大勢の人がどうすることもできず、ただずんでいるだけでした。「とりあえず、会社に向かおう」と思い、東京駅に行ってみると、そこは多くの人でごった返していました。安全確認が出来るまで電車の運転は見合わせとなっているからでした。そのため、普段は人の流れが止まらない地下街ですが、どうすることもできない大勢の人が諦め顔で階段に座り込んでいました。

 中央線や山手線など一つの電車が運転見合わせなのではなく全ての電車が見合わせをしているので、おそらく電車の運転が再開されるのはかなり遅くなるか、もしかすると今日中に再開しないのではないかと思いました。私は人々と違う行動を取る必要があると感じました。そこでまずコンビニに行き、飲物とスナックを購入し、まだ営業している飲食店に入りました。まずは腹ごしらえです。時刻は15時半くらいかと思いますが、まだ大勢の人は空腹を感じる時間ではない様で、直ぐに食事をすることができました。

 丸の内から会社のある文京区まで、それほど遠い距離ではないので歩くことに決めました。歩きだしてみると、レンタカー店があり、借りられる車があるか聞いてみましたが既に予約でいっぱいと言われました。そのまま歩いていると、ホテルがありました。私の自宅は東京から60キロほど離れた青梅市なので、おそらく今日は家に帰れないと考え、空室があるか聞いてみましたが満室でした。続けて会社の方へ向かって歩いているとカプセルホテルがありました。ここもおそらく満室だろうと思いましたが、念のため聞いてみると停電によりエレベーターが利用出来ず、歩いて9階まで上がる必要があるがそれでも良いかと聞かれ、「はい」と答えました。感謝なことに17時くらいには何とか避難できる場所を得ることができました。

 暫くロビーにあるテレビに釘付けになりました。千葉県のコンビナートで火災が発生している映像や、津波の映像があちらからもこちらからも中継されていました。中には向こうから迫って来ている津波の手前を車で移動している姿もありました。「あぶない!」私は叫ばずにはいられませんでした。以前、私は土木地質の専門学校に通っていたのですが、担任から「津波は時速200キロの速さだぞ!もし津波が見えたらどんなに頑張っても逃げ切れないぞ」と言われていたからです。19時頃でしょうか、窓からみる外の道路は大渋滞となっていて、不謹慎ではありましたが、ヘッドライトとテールランプが線となり、ある意味美しくもありました。その後、カプセルの中に入り、「これから、どうなってしまうのだろう」と心配の中、ニュースを見ていると地下鉄の運転が再開されたことを知り、翌日の午前3時頃に地下鉄に乗って会社に戻りました。数人の従業員が残っていて、皆無事であることを確認できました。

 私は3月12日に引っ越しの予定をしていて、引っ越し業者に延期の連絡をしたのですが「災害ダイヤル」に繋がってしまい、引っ越し業者に連絡することができませんでした。どうしたものかと思案の末、西武新宿線の花小金井駅から青梅駅行きの都バスが走っていることを思い出しました。そのため、動き始めた西武線に乗り、花小金井駅で下車すると、目の前に「青梅」行きの都バスが停車していました。そのバスに乗ったとき、これで何とか青梅まで帰れるという期待感が沸き上がってきました。バスの車窓からみる景色は普段と何も変わらないものでした。都心で起きていたごった返すような状況とは皆無であったと記憶しています。同じ東京なのかとさえ思わされました。他方、被災地の方はかなりひどい状況なのだろうと想像せずにはいられませんでした。

 話は変わりますが、震災から数日後のニュースにおいて日本人が秩序を保ちながら支援物資を受けている情景を世界中のメディアが報じていました。多くの日本人はそれが当たり前であると思っていて、何か特別なことであると考えていません。しかし、全世界では混乱が起きたときに人々は強奪や無法地帯になることがあり、日本人がそうで無いことが珍しく、ニュースとして紹介されていました。日本は昔から災害が多く、人々の口癖として「困ったときはお互い様!」と考えています。この思いが多くの困難を乗り越えてきた力なのだと確信しました。日本人全員が秩序正しく行動をするということでは無いかも知れませんが、大多数の日本人がそのように考えていて、且つ自分よりも困った人を優先する思いやりが、これからも日本人のDNAとして存続し続けて欲しいと願います。

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